どくんごに会いに大宮に行ってきましたので旅の感想を残しておきます。

今年の「誓いはスカーレットθ」に関しては、「無事終わってくれればそれが一番」という思いが強すぎて作品の中の感想をあまりうまく言語化できない。
が旅から戻ってしばらく経つので覚え書きのように書き留めておきたいと思う。
「この船に乗れる人はお急ぎください。本数も定員も決まっています」という切実さを内包しながら粛々とその日のことを。
その日の風はその日足を運んだ人だけのもの。

前夜祭イベント「ダンスとアコーディオンの夕べ」にも3人それぞれいい風が吹いていた。
とりわけ背景の奥に進んでいく西瓜さんの背中のささやかな蝉の羽のようなラベンダー(?)の吹き流しのリボンが風に揺れるたおやかさと言ったら。
シャンソン好きとしてはるつこさんのミュゼットを生で聴けてとても嬉しかった。
「29歳の時に一体何があったの!?」という激しく情熱的な曲、
大切な思い出のある人が空に行ってしまって作った曲、
変幻自在であっという間の時間でした。
青森から参加の長内真理先生はとてもシャープでソリッド。
いつ見ても年々研ぎ澄まされていく。
自分も青森公演を担当していることになっていながらどくんごの舞台に真理先生をなかなかお呼びできずにいたのが心苦しかったのでこの場を作ってくれたさっちゃんに感謝。
お人形と一体化してのソロから、呪縛を解いてのデュオへの変貌。
客席で「あのお人形怖ーい」と泣いてしまった子を見ての
「幼いころからそんなに豊かな観劇体験ができてうらやましい」という感想も拾いました。
そして3人すべてのオペレーションを静かにこなしたへもさんの姿を観られたこともよかった。
どくんごを介して「いま」「ここ」だから出逢えた3人の一期一会。
感慨深い一夜でした。
たぶん年が経ってくるたびにしみじみ「あの時観ておいてよかった」とじんわり来るのではないかなと思います。
開けて翌日の日中は東京へ脚を伸ばし、

三菱一号館美術館で開催中のマリアノ・フォルチュニ展へ。
外見は瀟洒でありながら中はとてもモダンかつ機能的なとても素敵な美術館。

絵画からはじまり、舞台美術、照明、衣装、ドレス、テキスタイル、写真、発明と、あらゆる才能を発揮した「ベネツィアの魔術師」と呼ばれたマルチクリエイター。
ドレスからテキスタイルに行ったのがおもしろかった(テキスタイルからドレス、という流れではないところが)
※撮影OKゾーンがありました。

布を織る、染める、布そのものを作る快楽、手を動かして何かをつくりだすという尊さに触れそれはどくんごにも通じると感じ
「舞台に立つだけが表現ではない」という大きな啓示をいただきました。

ちょっとした食事を作って気に入った食器に盛る。そのこと自体がもう表現で、
生活の中にどれだけそういう自分の好きなものを重ねて心地よく生きていけるか。その大切さについて学びました。
併設カフェも外国に来たみたいで旅気分高まる。

そして誓いはスカーレットθ大宮公演初日。

堂々と一番前で集中して観たかったので受入としてではなくお客として入りました。

どくんごの役者は舞台にしっかり立っていられるところが好き。
だから倒れることができる。
そして起き上がることができる。
何度でも。
何度でも。
冒頭のつかみからどくんごには珍しい狂言回し的な存在だった2Bが終盤のソロで「始まったそばから終わっていく」と倒れては起き上がるシーンがとても好きでした。
物語の周辺にいた人がずばっと真ん中に入ってきて核心に触れる鮮やかさ。
とりわけ起き上がるときの足首。
自分もダンスのレッスンで足首と股関節のクッションについて「しか」やっていないのでとても興味深く観ました。
さっちゃんとのワルツも嬉しかった。あれはあの2人でないと踊れない。
観客数が上がってきたこともあってかツイッターではむしろ
「公演あるとは聞いてたけど公演日を調べておらず見逃した」
「公園にテントが建っていて興味はあるけど今日は行けないのでまた機会があれば」
という「もう少しのところで船に乗れなかった人たち」の声も目立ち、
「今年の舞台」がどれだけ貴重なものかを知るものにとっては忸怩たる思いがする。
が、秋田公演でも思ったが「劇団にせよ個人にせよ、いろいろとままならなくて大変だよね」なんてことつゆほども知らないでまっさらな気持ちで劇場に足を運んでくださる方々がたくさんいてこそのツアー。
知ってから実際に来るまでに数年かかる人もいる。青森なんて数十年かかる人もいる。
あまり悠長なことは言ってられないのだが気長さ、のんびり構える姿勢も残しておいてもいい。
が、私たちは知っている。
「またの機会」なんて永遠にやってこない。
散らかして、重なって、風に飛んで、かすかに残ったはずの香りもやがて消えて別の何かに変わっていく。
人はみな死ぬ。

でも今日は生きている。たぶん明日も生きている。だから明日行ける人は行けばいい。先のことはわからない。
今年ももうすぐ終わってしまう。
私は鹿児島千穐楽にはまた行ったことがない。
いつだって次会うために別れるのだから寂しいと思うことはない。
だからっていつか気まぐれに鹿児島に行ったとしても別に最期を覚悟したわけではないです。
ただ単に飛行機に乗れないだけです。いつか乗れるようになったら行くかも。大阪や札幌、釧路も同様。
以前どいのさんが「せっかくここまで一緒に年取ってきたんだからこれからもよぼよぼになるまで一緒に過ごしていこう」と言ってくれた。どうか元気によぼよぼになってほしいものである。(かぶとくんはよぼよぼにはならないで、と言っていますが)
ここまで受入と深くつながってくれる劇団を私は他に知らないし私は健康上の理由でできないことも多い。
できるのはせいぜいこうしてたまに文章を書いて気まぐれに投下するだけだ。
どくんごの受入と言っても実務はまほちゃんとチバ君にやってもらって自分はツイートと手紙くらいしかやってない。
どくんごは私を「ただその場にいるだけでそれでOK」としてくれるのでそれでやっと成立しているので他の人たちや団体を受入れするのには自分はたぶん向いていないんだろうな。
表層や上澄みではなく土台や芯、中身といってもいい。そこをお互い見つめ合わないと長くはつきあえない。
地面に花が咲いている。その根っこの様子を気にかけていないと来年の花は咲かない。
ゆりあちゃんは秋田ではじめて見たとき、まほちゃんが十代だったころのことを思い出すなー、という印象で、大宮にはその自分の思い出の影を払ってゆりあちゃんそのものを観に行った。

サファイヤと千鳥のシーンは、三日三晩不眠不休で芝居がかった言動を繰り返すという症状は自分自身経験したことがあり(衒奇症というらしいです。)サファイヤの苦しみも千鳥のつらさも切実に知っているだけにもうただじっと見つめるしかできなかった。
終演後やっしーに「笑いもせずに批評家のように厳しい目で見ている」と言われたが第二バイカル湖掘るの苦しいだろ!どうしてそこで笑えるんだよ!というのは冗談ですが自分はどくんごはお客としてみるととても真剣に観てしまうので難しい顔になってしまうようだ。
やっしーがいることで可愛くてポップ、だけじゃないコクというかアクというか、そんなものが加わる安心感。

もうすぐ45歳の私が高校生のころから観ている役者さんが今でもまだ全国ツアーの板にいる。凄いことです。
16歳の時「君を待っている」で初めてどくんごを観たときあまりにも衝撃的で、2日目も時給333円のラーメン屋のバイトを「今日だけは休まないと一生後悔するので」と無理に休んでに行ったらさっちゃんが「よかったー!昨日すごく難しい顔で観ていたからー!」とあの笑顔で迎えてくれた。
そういえばどくんごのメンバーは若いときから年取ってきてもあんまりいい意味で変化が少ない。
やっしーの若いころなんてどんなだったかというとわりと今のまんまです。
中盤にどいのさんの弾き語りがあるのもよかった。どくんごらしい内容だし、作品的にもあの場所にあることでぴりっとする。甘くて可愛いだけじゃなくスパイスも効いてさらにおいしさが深まる。

どくんごの母は私ではなくむしろさっちゃんだと思うが。
私がマスコットの珍獣担当でさっちゃんが実際。
不調や不安をあまり表だって出さない人だからとにかく充実したオフを過ごしていいインプットをしてほしい。(来年はどくんごのツアーはお休みです!)
私はなんなら二年休むのもありとすら思っているけど、三年越しの公演とかになってしまうと街々の状況や受入さんの生活が変化していく可能性もあるか。
さっちゃんの誕生日も6月5日生まれなのかな?って思いました。
繰り替えし言うがワルツがまた観られて嬉しかった。今も生きています。

数年前諸般の事情で「ファンレター」というものについて調べていたら、ある漫画家さんが
「売れてないときの方が素敵な感想をもらえた。売れてしまったらバカみたいな感想ばかり届くようになってしまった」
と書いていてすごくはっとした。
どうしてそうなってしまうんだろう。
売れなかったときに手紙をくれた人たちはどこに行ってしまうんだろう。
どくんごの感想もどうしてもたどり着けなかった人や初見の人の感想が集まりがち。
「笑った」「あやしい」「最高」ばかりが集まりがち。
それでもいいよ。いいんだし有り難いんだけどそこは表層とか上澄みとかでなくどくんごが立ち続けるための土台や根っこ、芯となる、核にほんのひととき触れることができるかもしれない「ことば」をもっともっとどくんごに投げて欲しい。
ファンが推しに貢げるのはお金と言葉だけだ。
どくんごに払えるお金はさほど多くない。
だからことばをたくさん投げてあげて欲しい。
文章力とかボキャブラリーを気にすることはない。名文大喜利じゃないんだから。
好きだったシーン、時間が経ってなお思い出される事柄、周辺の景色、帰り道で思ったこと、一緒に行ったこどもの成長、そんなよしなしごとを折に触れてぽん、ぽん、と投げて欲しい。

「ロボットカミイ」という絵本に、ダンボールで作ったロボットカミイに「なみだのもと」と称してビー玉を入れて魂入れをする場面がある。
どうか行く先々で、どくんごという生命体にたくさんのビー玉が集まりますように。

それではまた。